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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 夏の空 1 

  夏の季節は人の心をおおらかにしてくれ恥も外聞も捨てることが出来る、が、小人閑居して不善をなすと言う生き方を知る…

  夏の空 1

 六十二してなにもかも捨てたと言ってもそれを引きずっていた。区切りは一長一短に終わるものではなかった。打分を弄しながら少しずつ離れていくしかなかった。約束のない書きものの楽しさに埋没をしていたのかも知れない。
 歳の巡りと季節の移ろいに関係なく生きていたのでそれも取り入れなくてはならなかった。ある意味混乱していたので少し過去を延長したと言う事だ。
 人は四季により心のあり方を変えるものだと感じた。それが人にとって安らぎをもたらすことも知ることになる。
過去の垢を落とすのにどれほどの時間がいるのかは全く見当もつかなかった。
ただ佇んでいた。

風立つ頃に
                      
今田 東

     1

 秋の彼岸だというのに瀬戸の海に霞がかかり島々はぽっかりぽっかりと浮かんでいるように見えていた。春の彼岸に妻の瑞恵と瀬戸大橋を渡って両親の墓参りをしたときにも霞がたなびいていて島はぜんぜん見えなかったのだ。
 今年は梅雨が短く、夏は猛暑の日が続き九月に入っても残暑はきびしく続いていた。地球温暖化が言われ初めて年月は経つが一向に改善は見られず、地球の各地で異変が続いているという報道が成されていた。日本もその影響を受けて夏から直ぐ冬へ秋を飛ばして季節が変わるのではないかと囁かれていた。
息子達も大きくなり各自が車を買っているので大きな車でなくて良いというので小さな軽四に乗り替えたのだった。足に障害を持つ瑞恵を乗せて走る分には十分であった。悠は地球温暖化を危惧しエコを叫んでいる以上大きな車を一人で乗り回すことに抵抗を感じていたのもその原因だった。乗り心地もそんなに悪くなく満足のいくもので気に入っていた。定年退職をして大きな車に乗り換える人の多い中、悠はその逆を行ったのだった。ステイタスという意味のはき違えに腹を立てたのだった。
「自然環境はかり叫んでいるがその前に人間環境の整備が必要だ。そうでなくては一人一人の環境意識が育たない」これが悠の考えであった。
 讃岐富士は見えなかった。それを北に少し行ったところの小高い丘に父母の墓はあった。
墓地に眠る両親は幸せであったのだろうか。
今、悠は思う。
父の久太郎の一生は氾濫万丈であったがそのことを満足していたのか。ともに歩んだ母のハルミの人生は幸せだったといえるのかと・・・。
 母を亡くしたのは悠が三十一歳の時、父を見送った二年後に後を追うように逝ったのだった。
 悠も母の逝った年齢に近づいていた。
 不安神経症を患ってから極力車の運転は避けていたが、最近は発作もなくなり瑞恵と一緒に出かけることが多くなっていた。三十代から三十年間も苦しんだのだった。良くなったきっかけは文学から演劇への転換であった。机に向かっていることから外に出て動くそのあり方が体にも精神にもよかったのだろう。自閉症の子、いじめられっ子、登校拒否の子、母子家庭の子らと演劇を創り公演することで体の不調を忘れ、そのことに忘我できたのが回復へつながった。十年間、子供達と演劇を作り続けた。
「演出の人形になるな」「考えろ」「私を当てにするな、動け」常にそう叫びながらじっと子供達をみていた。縮こまっていた子供達は一所懸命に考えようとし動いた。
 上手にできようができまいがいい、公演が終わり、幕が下りたときに舞台にあがったことで自信を持ってくれればいいと、人間として一歩でも階段を上ってくれていればいいという考えであった。それは悠にもいえた。悠には乗り越えなくてはならないものがあったからだ。この子らと何かを創ることで今までの見方が変わり見えなかったものが見える事を願ったのだ。劇団の青年も必死になってカバーをしてくれた。その中には長男豊久もその嫁の仁美も次男勇太も嫁の美幸もいた。人間は決して一人では生きられないことを感じてくれればいいというものだった。子供達の目がきらきらと輝き始めた。何かを創る苦しさを通り越したときそこには達成感と開放感が生まれる、そのことに快感を持ち始めた証拠であった。自己を表現することが喜びであることを苦しみと汗の中で身につけたのだ。滑舌ができ言葉もはっきりと相手に伝えることができた事ではつらつとした態度をとれるようになった。
 今、子供達はみんな青年に達し世の荒波の中で生き始めている。舞台に上がり、映画に出演した思い出は一生続いて何かの作用を及ぼすだろうと思う。      悠はそれで十分役目を終えたと自負するのだった。

 瀬戸大橋を渡ってインターを下りると讃岐富士は春霞がかかったように見えてきた。飯山(いいのやま)を讃岐の人たちはそう愛称でよんでいた。
父も母も幼い頃から見慣れた山である。昔はなだらかな稜線にいろいろの草木の花の色が散っていた事だろう。この山の四季の移ろいの中で育ったのである。人の営みを寡黙に眺めたのだ。今はたくさんの人家が中腹まで埋め景観を変えていた。頂上には鳥居があり近在の人は参拝をしていたという。霊峰であったと言うことか。近年レジャー施設ができ道路は二車線が四車線に整備され走りやすくなったが、その分、車の往来は多くなっていた。田舎の感があったが今では村から市になり佇まいが変わった。スパー、ドラッグストアー、ホームセンターなど大型の建物が存在を誇示していた。その中でやたらうどん屋ののれんが風にたなびいている。讃岐うどんが名物として全国的に広がり遠くの人たちが食べにくるという事であろう。讃岐平野は毎年水飢饉で米の収穫は計算出来なかったので、小麦や大麦、豆を植え、それをひいて粉にしてうどんを食べると言う風習ができたのだろう。古い家は周りを囲むように樹木が植えられ小さな森の様相を呈していた。生活の知恵から樹木を植え生活水を確保していたのだ。あんなにあったため池が姿を消したのはいつの頃だろう。今では数えるほどになっている。吉野川にダムが造られその従来の役目を終えたのだが、毎年のように渇水の被害が出ていることを考えればため池をなくしたことは早計であったと思われる。
「このあたりも変わった」と言うと、
「それだけこなかったと言うことなのね」と瑞恵が言う。
「仕方がない」
「病気だったのですもの」
 短い言葉のやりとりが四十年間連れ添った夫婦の懺悔のものだった。
 飯山を通り過ぎると小高い丘が見えるはずだった。そこが父母の墓所だったのに、今ではここにも住宅の波は押し寄せていた。
兄の寿行夫婦が参りに来たのか墓は綺麗に掃除をされて花が供えられてあるがそれは枯れ、線香の燃えかすが白く崩れていた。何日がまえに父母に会いに来たのだろう。花は秋の日差しによって枯れたのだ。
「お義姉さんに綺麗にして貰って・・・」と言いながら瑞恵は悠がバケツに汲んで来た水にタオルを浸して墓を拭いていた。
「親父、一服しょうか・・・」と悠は言って煙草に火を付けて供えた。
「今年は彼岸花が咲いてないわね」とあたりを見ながら瑞恵が言った。
「コスモスは春から夏、秋まで咲いているよ、その代わりに・・・」
「気候が狂ってきているのね」
「あの頃は良かったと言える年齢になったのだよ」
「今の時代、あなたの年齢はまだまだ年寄りではありませんよ」
「母さんが亡くなった年齢にもうすぐ手が届くよ・・・」
「もう三十八年も前の話、今では寿命も延びて・・・」
「なにを言っているのだと、親父は笑っているかも知れない」
「きっと、お義母さんも笑っているわ」
「仲良くしているだろうか」
「お義父さんは得意の英語で煙に巻いているかも知れないわね」
 両親はたわいない息子夫婦のやり取りをどのように聞いているだろうかと悠は思った。元気で円満な姿を見せることが何よりの供養だと、仕合わせな営みを見て貰うことが一番の親孝行なのだと悠は思うのだ。手を合わせて無沙汰を詫びた。線香立てのたばこの煙は紫に変わりゆらゆらと立ち上っていた。

立ち上がって西を眺めた。実をつけた稲穂が黄金色に広がっている向こうに土器川の堤防が一望できた。この一帯を持っていたのは本家の吉馴家だったのだ。神社に山や農地を寄進し、金比羅に金子を奉納した寄進石は今でも残っている。菊池寛の小説にも百姓一揆を逃れた吉馴家のことがかかれている。一揆の焼打ちから逃れたのは小作の人たちが屋敷の周りに燃えるものを積み、火をつけたので通り過ぎたと言うことだった。燃えなかった証拠に大屋根の下の格子窓には矢や鉄砲の弾も通らない鎧戸が天井にあげられいざという時にはそれを落とす細工がしてある。瓦はすべて紋入りで焼かれたものだ。蔵が十棟はあったと言うがそれを何棟か潰し養蚕で財を失ったらしい。戦後、農地改革によってすべての土地は小作人に渡りわずかの土地を保有する農家になり、兼業農家として続いている。素封家として今も残るが昔の面影はない。が、屋敷の偉容さは過去の繁栄を物語るにふさわしいものだ。
 
久太郎は綾歌郡岡田法軍寺と言うところで生まれた。今の丸亀市飯山町法勲寺である。屋敷跡は竹藪に覆われている。高台の墓地のあるところから少し下がったところで育った。この墓地は先祖代々だけが眠っているところである。吉馴家の墓は先祖墓が高く大きいが、だんだんとその高さは低くなり、戒名も手抜きされたものに変わっていく。人としての器量と徳が祖先より劣ったのか、寄進料が少なくなったせいか、その趨勢は墓の中に現れている。蓮井家のものも二代までは武士の墓にふさわしいが、それ以後はふつうの墓石に変わっている。先祖墓は何を今生きる人に語るのか、その声を聞き取る術はないが、小高いところから末孫の行く末を見つめているのは確かである。
飯山を左に眺め土器川を後ろにし、東に向いた墓は日の出の明かりを受けてただ黙しているのである。

永代名字帯刀であった大庄屋吉馴家の次男勇太郎信義が高松藩の蓮井家に養子にあがり分家をしている。勇太郎は幼い頃から武道に精進し特に槍術に長けており、小作人が庭に持ち込んだ米俵を槍でぴょんぴょん蔵の前に積んだという事だ。四畳半で槍をビュンビュンと回したと言うことだ。師範として藩士に教えるために馬に乗って高松まで通っていた。父から遡れば四代前のことである。吉馴家の隣に屋敷を建てた。馬に乗ってもくぐれる門構えであったという。勇太郎が家督を六三郎政寿に譲ったあと、勇太郎が六三郎の前で立て膝をしたときに、
「主の前でなんたる無礼か」と刀で膝を斬ったと言う話が伝わっているが、その真意は不明である。六三郎は骨董に懲り、たくさんの偽物を買わされ借財を負ったというのも真意は藪の中である。
 明治維新になって数雄を残しすべての兄弟は故郷を離れた。岡山の興除村へ移った。次男は興除村の川崎家へ養子に入り歯医者になり、その子供は早島の沢田家へ、沢田虚舟は書道で身を立て「関西書道学院」を開いた。父の従兄弟である。
 祖父政寿は備前福岡へ出た。今の瀬戸市福渡である。昔は備前福岡と言えば下津井に負けず栄えた港であった。そこで農具の工業化、農機具の改良発明を手がけた。機織り機、耕耘機の発明を手がけた。その特許は父の弟信義が引き継ぎ特許料で食べていた。政寿と信義は先祖の下の名前をもらっていた。
 祖父との思い出はたくさんある。ポケットから糸埃がいっぱいついた飴をもらったので洗って食べたら、
「悠はわしがやった飴を洗って食べた」と何度となく言われた。何事にも頓着しない性格の人であった。映画が好きで毎週見に行っていた。悠は祖父のこぐ自転車の尻に乗ってお供をするのが常だった。まだ小学校へも上がってない頃のことであるが悠も映画が好きであった。福岡から岡山の興除村へ移るのには仕事の関係もあったろう。農機具の工場があったからだ。父を生んだカネとはここで離婚してマツという人と所帯を持った。カネを母が義母の様に慕った人であった。が、その所為かマツからいじめられることになったと母は後に言ったことがある。カネは寒川某と再婚して父の義理の弟角次を生んでいる。
父は母を連れて神戸へ出た。そこで外国語の専門学校へ入った。今の神戸外語大である。六ヵ国語を話したという。
三宮の駅前に貿易商の店を開いた。大連、上海、台北、香港、シンガポールに支店を持ち順調に事業を拡大させていた。ボルネオかシンガポールであろうか、眼鏡をかけ麻の背広にかんかん帽でホーズをとる絶頂期の父の写真を見たことがある。大連の支店が不祥事を起こし貿易から退いた。伊藤忠、伊藤万もその頃は父の店と相応であったという。その頃母は三宮に住んでいた。動物園に頼まれて仕入れたためたくさんの動物で大変だったと言うことを母から聞いたことがある。その頃の母は奥様で女中にかしずかれて二人の子供を育てていた。母が三の宮のことをあまり語らなかったのはなにか訳があったのか。父は母に聞かせたくないことはすべて英語で話したという。友達と福原へ出向く時も、商売の話も英語で話したのだ。母は三の宮でどのような生活をしていたのか、父と何らかの確執があって賢自を重太郎に託したのであったろうか。そのことで母は賢自の母ではなくなった。腹を痛めた我が子を養子に出す事はどんなにつらかったろうか。国内ならまだしも遠くブラジルへ行くのだから永遠のわかれだと感じていただろう。母の心中を察すると胸が痛くなる思いだ。

 父が言っていたことのひとつに、
「娘が生まれたら銀行員に嫁がせないように」と言うのがある。
 明治維新の後禄高をすべて銀行に投資した事に対する遺恨があるのか、家柄の良いところは卑しい金貸しには嫁にやるなと言うことわざが残っていたのだった。その百十四銀行の頭取と今では親類になっている矛盾があるが・・・。

母は土器川の西、垂水村で生まれた。今の丸亀市垂水町である。明治時代になってはいたが武家の血筋に嫁に来ると言うことはそれ相当の家柄でなくてはならないだろう。丸亀藩の儒学者大森某が先祖であった。大森鍾一が徳川幕府の最後の城主でのちに男爵に為った人である。その関わりは調べてはいないが父の出所とあまり違いはなかったものと思われる。むしろ母の今田家の方が上であったのかもしれない。が、明治の終わり頃のことなので嫁は下からと言う武家の習わしはなくなっていたかもしれない。明治になり農家になった今田家は子たくさんで、母の次兄重太郎は海軍に入り退役して新天地ブラジルへ移民をした。その時、悠の次兄賢自が養子になりついて行った。母は後年そのことを寂しそうに語ったのだ。幼い我が子を手放した母の思いはその子への鎮魂として聞こえた。母はそのことを胸に抱いて過ごしたのだろう。
母の長兄安吉は徴兵されたが復員して父を頼って岡山に来ていた。 
維新の流れはすべてのものを洗い流していった。その犠牲が父の母の系譜に明らかに出ている。母は男の子四人と女の子二人を産んだ。
 
 土手の下を流れる土器川の流れを思った。一年中水の流れはなく乾ききっている川である。報道であふれるぐらいの流れがあったというものはない。が川幅は広く維持しているのはこの川が藩境であったと言うことにその存在価値はあったのか。幕末の頃はこの川の西が丸亀藩で東が高松藩であった。藩境の川を挟んで多くの風習は異なる。たとえばうどんの太さが異なる。ため池は西に多い。東の高松藩は優雅な栗林公園を持ち、平賀源内、宮武外骨、菊池寛など一風変わった人物を輩出している。西の丸亀藩側には金比羅を有していた。それに名刹善通寺がある。空海、大平正芳はここの出である。丸亀は四国の玄関口で備前の下津井へ渡る舟が通っていた。坂本龍馬が本州に渡ったのもこの港からであった。

 この推察は極端かもしれないが、作家の辻邦生の祖母は丸亀藩の漢学者の娘、母の里は丸亀藩の儒学者と言うことになれば何らかの関係があったかもしれない。

 昔は墓参りと言えば一日かかったが今では十分もあれば橋は渡ることが出来、墓所まで二十分もあればいけるようになった。一日かかっていたときの方がよく墓参りに行った。その頃は病気になっていなかった。父と母を送った後であったから彼岸の墓参りは欠かさなかったのだ。その後は車に乗れなかったという事で墓参をおろそかにした事を後悔している。だが、法事の日にはお参りをした。息子に頼むと出来たことであるからだ。その余裕はなかったのか、現実を生きることに汲々としていたのか、今考えればその両方かもしれない。

悠が初めて法勲寺へ行つたのはまだ小学校へ上がる前の頃だ。母に連れられ海を渡り歩いて垂水の墓に参り、土器川の中を歩いて渡ったのだ。土器川はいつも真ん中にしみずのように流れていたから幼い子でも渡れた。
「この子はいつも頭を少しかしげていて・・・。おじいさんにそっくり」と母は心配そうにいつも言っていたのを思い出す。
 吉馴家の偉容は思い出すが、隣にあった蓮井家はその時は藪に占領されていた。火を出したのか消失していた。今、信義の長男照正が少し離れたところに住んで蓮井家の後を継いでいる。
明治維新を境に没落していったのだろう。
 それから何度か母とともにそこを訪れた。父のふるさとであり我が家系のみなもとがここだと思うようになったのは時を待たねばならない。
 
屋敷跡の竹藪がざわざわと風に逆らって揺れ鳴いているように感じた。
「親父、おふくろ、またくるよ」と心に言って後にした。父母の墓の隣に長兄英弌の墓がある。昭和二十年三月二十九日、東シナ海においてイ号八潜水艦にて戦死す。と墓標に刻まれている。帰る燃料を持たない出撃であった。細面の端正な顔立ちであった。家系の中で長姉晶子と悠が丸顔である。これは母方の血筋なのである。
「義母さんの方へ行くの」瑞恵は帽子のつばに手をやってまぶしそうにして言った。母方の墓地へ参るのかと問うていたのだ。
 日差しは強くなり照りつけていた。
 悠は忘我の中にいて足下に咲き乱れる秋桜に目を向ける余裕がなかった。
様々な思いが過去へと誘いある種の感傷的な心情に導いていた。それは同じ血の引く者の血の高鳴りであったのかもしれない。
     


久太郎は神戸三宮の店をたたんで、母と長男英弌と長女晶子を連れて岡山に帰った。大正の終わり頃だった。宇野線の大元駅の前に居を構えた。
 久太郎はどのような思いがあったのか今までのすべてを捨てて土木建築の仕事を始めた。阪神築港にいたとき児島湾の開墾をしている。藤田開墾の続きの海を浚渫船でふかして太いパイプで堤防内に放出し干潟を造りそれを陸地にすると言う仕事をした。今の国道三十三号線の東は久太郎がなしたものであった。佐伯組、大成建設でもいろいろの仕事をしている。外語の堪能な久太郎がどのような経緯で全く畑違いの仕事についたか分からない。人の道はいつ如何様にも変わらざるをえないと言うことか。家族のためだったのか、このままでは終わりたくないという血のざわめきであったのは忖度する余地はない。兵役免除であったと言うことは国内で軍の仕事をしていたからであろう。小柄で懲役検査は丁というものであった。戦争も終わりに近づくと丁の人も出征していたのだ。父がそれを逃れられたのは開墾したところに飛行場を造るというものだった。朝鮮労働者を使って海を陸に変え、そこへ軍事施設を造るという、国の重要施設の建造は後に莫大な資産をもたらすものであった。その中に信義も角次もいた。

 長兄英弌は昭和十八年に志願兵として出征した。江田島海軍敞へ入隊、そこで潜水艦乗務員の訓練を受けた。昭和二十年三月、戦艦「大和」を護衛するという任務で「イ号八潜水艦」は沖縄に向かった。その途中米軍機の攻撃にあい撃沈した。父はその訃報を聞いたときどのような思いであったろうか。自分の変わりに戦場に出た我が子に哀悼の気持ちがあふれていたろう。我が家に代々伝わる家宝の刀を授けた父は覚悟していたはずであった。遺骨が帰ってきたが骨壺の中には「海軍兵曹蓮井英弌殿」と書かれた紙切れが入っていた。兄は六十五年たった平成の世になってもまだ東シナ海を潜行しているのだ。

父は戦後、「蓮井組」を立ち上げた。家のない人が多くいた中、市内に五軒、興除村に一軒、浦安飛行場に一軒と屋敷を持っていた。戦中には興除村の家は家族を疎開させるための家だった。悠はその家で英弌に抱かれて見送り、岡山の空襲を見た記憶がある。悠はその時二歳であった。
食べるものに不自由をした記憶はない。巷ではカタパンや麦飯を食べていたが白米をいつも食べていた。大元駅前はほとんど蓮井組の土地だった。建設の石を切り出すのに山を所有していた。製材所、飯場、石置き場があった。自給自足のため農地を四町歩もっていた。米を植え、従業員が三台のトラックに乗り刈り入れに行き、後は大福座を借り切って芝居見物をし、豪勢な弁当を食べ飲んだ。それは三日間も続いた。岡山空襲で消失した町は瓦礫の山だったから、公共事業や個人住宅の仕事も多かった。その頃の金で三億の資産を有していたという。
昌子が妹尾光夫と結婚したのはその頃であった。光夫は久太郎のところで働いていた。晶子は明と茂という子を産んだ。海軍へ兵役出征したが無事に帰ってきて働いていた。久太郎の元へ海軍にいた蓮井照正、猪内留吉が復員して働きに来ていた。甥たちであった。後に留吉は次女絹子と結婚した。絹子は三人の子をなしたが二人は不幸にも夭折している。現存しているのは次女の忍である。後に忍は結婚し二人の男の子を産んだ。

 ある日、家中の家具調度品に差し押さえの印紙が張られた。
 朝鮮学校の仕事をしている時連帯保証人になってすべてを失う事になる。栄枯盛衰とは言い得て妙である。それからの父は日の目を見ることはなかった。今までのつきが人生のすべてのものであったという風に何をしても成功しなかった。父の元で働いていた人が一人前になり一家をなしていたが見向きもしなかった。米を借りに来たり、金の無心をしに来たりした人たちであった。その人達は今、岡山の大手の建設会社を経営しているが。人の世の非情を感じたであろう。だが、戦中に飛行場を造るために働いていた朝鮮人は北へ帰る時に凋落した父の元を訪れ別れの挨拶をしに来た。それが父にとって大きな慰めになったことであろう。
 父は差別をすることなく平等に接する人だった。家柄の確かさは顔に品を漂わせていることだが、父にはそれがあった。品というものは三代経済的にも人格的にも裕福な生活をする事で初めて作られるものだ。が、品がなくなるのは一代で済むのだ。人を慈しむその精神が人の顔を作る。

 母は有為転変の世の中を母なりの工夫で過ごしていた。父が何もかもなくすると、藺草刈りにでたり、稲刈りにでたり、今までしたこともないことをした。それは幼い寿行と悠のためだった。我が子にひもじい思いをさせまいと思願う母親の行為だった。
 父は仕事が順調な時は外に女をつくり囲ったが、失敗すると家に帰ってくる父を喜んで迎えたのは母の大きな心であったのか・・・。
「何度も別れようと思ったことがある」と悠が大きくなったときにつぶやいたのは母の本音であったのか。それだけ父の女道楽には我慢が出来なかったと言うことなのだろう。だが、母はそれを我慢して女の一生を終わったのだ。
子供の事を心の怒りより優先したのだ。
 母は父の友人がやっていた製材所へ行きのこぎりの前で板を切った。木っ端を自転車の荷台に積んで、自転車に乗れない母は押しながら体中大鋸屑をつけ夕日の中を帰ってきた。悠はその光景を忘れることはない。あの大きな夕日は心に刻まれている。

 父はいろいろなことを試みたがすべてうまくいかなかった。借金はふくらんでいった。
 兄は中学を卒業して鋳物工場へ勤めた。今までの家系では初めてのことだった。どれほど貧しさを恨んだであろうか。その心中は推し量ることは出来ない。そのことで兄の人生は別の道を歩むことになるが。それも定めとあきらめなくてはならないことになった。兄は従姉妹の絹江と結婚して一人の女の子久美子を持った。独立して児島へ移った。
 後年父は大阪へ失踪することになるが。新しい出直しを試みたのだ。
 母と悠の二人だけの暮らしが始まった。
 父の生き方を反面教師として。と言っても父を嫌っていたわけではない。

     三

母はたびたび職を変えた。綿だらけになって布団を縫ったり、藺草のほこりを浴びて茣蓙を織ったり、泥だらけになって田植えを手伝ったり、賄いに出たり、卒中で倒れるまで働いた。
三の宮時代はハイカラな衣服に身を包んでいたが父の女道楽で心が休まる暇もなかったし、父が失踪した後はがむしゃらに働かなくてはならなかった。悠は母の姿を見て育った。母の姿を世の母親の姿と重ねて見てはいなかった。だが、母は生き生きとしていた。その境遇を甘受しているのだろうか、開き直りなのだろうか、お嬢さんさんとして育った過去を完全に捨てていた。それが女の強さだと言うことが分かるには悠は幼すぎた。完全に子供を守り育てる動物の本能を持っていた。どのような境涯の試練も乗り越えるしたたかさを見せていた。
そのことを感じることが出来るのは悠が子供を育て世間並みに苦労を重ねたからだった。
父がそれを持っていなかったとは言わないが、若い頃は子育てを軽く見ていたきらいがある。それは明治生まれの気概であり血筋なのかもしれない。だが、晩年、悠の元へ身を寄せ暮らすようになってからは何かが落ちたように変わった。半身不随の母を看病しつくす姿は悠のまぶたの裏にある。それはかつての生き方をあらため生まれ変わりのように見えた。それを歳のせいにしたくないが。病の老妻を慈しむ感情と昔の不貞を詫びる態度が見られたのだった。それは老いて到達した深い情だったのかもしれない。老いの弱気から生まれたものだったのかもしれない。
父は悠に優しく遠慮がちにものを言った。何か後ろめたい事を隠す様に・・・。そんな事を考えなくてもいいのにと悠は思うが、老いて身を寄せ面倒を見てもらう事への挨拶のようなものだったのかもしれない。一つの判子が父の人生を変えたのだが、それは父の責任であり逃げようがないことを認めていた。子供が親の面倒を見る、親は老いて子に面倒をみてもらうという当たり前の図式だったが、そうなのだと子供に押しつけることは出来ないのだ。今は核家族になって親と子は別所帯で暮らすようになり互いに心を離して生きる時代になっている。それがいいのかどうかは培った人生観だろう。
病気になって母は初めて労働から解放された。半身不随と言うハンデを背負って・・・。
父はかいがいしく母の面倒を見たし、料理を作って悠の帰りを待ち、母に食べさせていた。穏やかな表情の父と母がいた。暗闇にわずかに灯りが差したようであった。

悠は母の懐で戯れ愛情の中で育った。悠は父に家という歴史も概念も話してもらっていなかったし、聞こうともしなかった。祖父が存命ならそのことは話しただろう。そのことは親から子への伝承でなく、祖父から孫への語りで家と言う歴史概念の全貌は明かされるのが常なのだ。祖父は悠が小学校の時に他界していた。発明家で映画好きという事くらいしか祖父のことを知らない。映画と言えば父も好きだった。何度か二人で見に行ったが、祖父ほどでもなかった。だが、一人で映画館に通い堅い椅子で見たであろう事は推測できる。兄も映画が好きで、一家の中で一番多く見ているだろう。すべての影響を受けたおかげで悠は文学を志し、作家になり劇作家になった。それは儒学者の先祖を持つ今田家の血が作用しているのかもしれない。いずれにせよ周囲の影響が知らず知らずに体の中にしみこんだのに違いないのだ。

「悠ちゃん、高校はどうするんね」母が聞いたことがある。
「行きたいじゃろうね」言葉を膝に落としていた。
「どっちでもええ、勉強はすかんけえ」と悠は答えた。兄のことを考えれば贅沢は言えないとそう答えた。
「今の内の経済状態じゃと、無理かもしれんが・・・。受験して合格すれば行こうが行くまいが自信になるから、勉強はしといた方がええよ」母の声はすまないという気持ちにあふれていた。その頃母は道路舗装の会社に賄いに出ていた。料理のあまり得意でない母が何を作っているのだろうかと気をもんだのもその頃であった。悠は母の作ったものをおいしいと食べていたが、他人はどうであったのか分からないことだった。
 受験は成功した。
 入学金はまだいた父がどこからか工面してくれた。たぶん兄に頼んだのだろうと思った。三年間の内の一年間はアルバイトをして学費を作ると言う生活をした。二年間は勉強より卓球に打ち込んだ。だが、体の硬かった悠はある程度上達したがそれ以上は前にすすまなかった。その頃学校の図書室で一冊の本に巡りあう事で悠の人生は変わることになった。それまで本など買わなかったし読まなかった。漫画は友達に借りて読んでいたが。小説というものには無縁の生活だったからその面白さに引き込まれていった。好きな映画を見ている様だった。ドストエフスキーの「罪と罰」が文学への目覚めを呼び込んでくれた。
母が職場で倒れたのは悠が高校三年生の十二月であった。昏睡状態が七日、目覚めると半身不随になっていた。何週間か寝たきりで少し良くなったとき留吉が背負って連れて帰った。父はおろおろして何も手につかない状態だった。下の世話や食事は食べさせていた。
大学受験だけはして見た。希望校に合格をしたけれど入学金を調達してくれる父にはどうにかなるという金額ではなかった。それに母の治療費がたくさんかかっていた。進学をあきらめて就職をした。仕事をしながら読書に励んだ。退職して失業手当をもらいながら原稿用紙に文字を書きなぐっていた。その繰り返しが当時の貧しい文学青年の実態であった。そのようにして作家になった人は多かったのだ。
 父はいつの間にか家を出ていた。悠にはその記憶はない。
十年間病床の母の面倒を看なくてはならなかった。その間文学の世界に浸りきりがむしゃらに生きた。ひょっこり十年ぶりに帰ってきた。その頃悠はアパートを借りていた。父と母と三人で暮らした。父が母を本格的に介護するのはそれからだった。その頃から病魔は父の体をむしばんでいたのだ。
そんな中で瑞恵に巡り会ったのだ。瑞恵の両親の反対、瑞恵の交通事故など二人の前途は霧に包まれていたが、二人の思いはそれらに打ち勝って晴らし結婚した。悠と瑞恵の結婚までのいきさつはいろいろなことがあったが、突き詰めて言えば家柄と血筋が世間でどのように人の生き方に作用するかを認識させてくれたという事だった。父にも祖父にも一切祖先のことは教えてもらってなかったので苦悩したが、それを知るには父の葬儀を待たなければならなかった。
悠と瑞恵のラブストーリーを書くのはこの書き物の本意ではないので割愛する。
父は息子の嫁をかわいがった。料理の手ほどきをし、蓮井家の味を教えていた。瑞恵が味を習得したのは父の味を覚え、レシピをものにしたからであった。特に正月料理はその家その家のしきたりがある。それをこなす事が出来るようになった。正月が過ぎた頃父は市民病院に入院した。悠は父のレントゲンを見せられたが胸の半分は白く煙っているようだった。瑞恵の両親がまだ交通事故の後遺症で頭痛のある事を心配して倉敷水島の実家の隣へ家を建てる算段をしていた。瑞恵の慰謝料でそれはまかなえるから是非来てほしいというのだった。父が苦しいなか設計図を引いてくれた。家が出来るとアパートを引き払わなくてはならない、悠は父母の部屋を作っていたが、そこへ来ようとしなかった。どこでどのように兄と話をつけていたのか父と母は児島にいた兄のところへ行った。親は子供の中の年上が見るものだと言う考えが周囲にあったのは確かだが、悠は拍子抜けしたものだ。瑞恵の気持ちはどうだったか。確かに考えてみれば嫁の実家の隣で世話になると言うことは屈辱的であったろう。まだ父には自尊心があったのだ。
 父は死と生の狭間で壮絶な戦いをしていた。見舞うとその都度一回り小さくなっていた。人生の中で天国と地獄、浄土と穢土を知ったのは父だった。
 父の葬儀はわびしいものであった。が、本当に霊を惜しむ人たちと近親者に寄っておくられたのだ。
「あの判子を押すのではなかった」「押したばっかりにみんなに苦労をかけた」
その思いを引きずりながら父は中有へ旅立った。そこで悠は家という歴史の概念を知らされることになった。叔父であり、叔母で下り、親戚の人から父の生い立ちから家を再興させなくてはならなかった経緯を聞くことになる。飯山という山、それが父のふるさとでありよりどころであったことを聞いた。
 父はふるさとへ帰りたがりそこで終わりたいと話していたという。
 父の遺骨を持って法勲寺へ行った。昔母と尋ねたときの記憶がよみがえったが、先祖墓の事は記憶から消えていた。その墓からも飯山はよく見えた。
「親父はようやくここに帰ることが出来たな」
悠は墓に遺骨を入れながら思った。人より浮き沈みの多かった父の一生は長かったのか短かったのかそれを判断するのは不遜であろうか。

    四

家という血とその歴史を知ることは良いにしろ悪いにしろ決して優越感を感じたり不屈に陥ったりすることではない。相応という生き方を教えてくれるからだ。相応に生きるその余裕が内なるすばらしさと諦観を生み幸せの概念を持たせてくれるであろう。
 家とか血にこだわることはない。概してその歴史は誇大に評価しそうあってくれたらと言う願望が記述されたり伝承されたりしていることが多いからだ。それは自己保身に必要であった時代の遺物なのかもしれない。必要ならば自分でそれを探し見つけることが真実を解き明かす事になろう。必ずしも歴史は誠実に書かれていると言うことはないのだから、時の権力者に寄って都合良く歪曲されたものが多い。それも人間の弱さであり生きるために必要であったことを理解する広い心がいるのである。人間は自らの先祖も、自分のことも華々しい歴史として残したいという願望があるのだ。家柄とか血筋というものは偶然の産物でありその積み重なりに他ならないのだ。歴史の偉人の例を見ても分かるが、その人たちはたまたま奇跡的という偶然に巡り会い名をなしたのである。戦場で鉄砲の弾が当たらず、斬り殺されなかったという運の良さがあったから長く仕えることが出来たのであってそれは血筋というものではむろんない。そして、人より頑丈な肉体を持って長生きをしたことにより財をなし、名をなしただけなのである。それは奇跡的という偶然の作用なのであって血筋とか家柄の所為ではない。そのことをすべて家柄とか血筋に置き換える傲慢さは人間の悲しい性なのかもしれない。
 江戸時代には系図を作る商売が繁盛したらしい。財をなしたり、名を遂げたりした人が今このように成ったのは先祖をこうこうだからだと自慢したかったためであろう。料金によって先祖の始まりは違っていたらしい。神武天皇であったり、村上源氏であったりと言うように系図屋の創作に自らの血筋や家柄を誇示した人たちが多かったのは確かなのである。
 今、坊さんが亡くなった人の戒名を金額によって変えると言うことが常識になっているが、戒名は生前になした善行や寄進をどれほどしたかで決まったものであって、即席につけられるものではない。それだけ仏教界は堕落したしこの世もあの世も金次第という事なのである。人の信仰心が薄れるのは当たり前と言うことか。心が伴っていないそれらはいずれ歴史のなかで糾弾される事であろう。そこに痛みを感じない坊さんにいくら経を読んでもらっても中有の旅は安らかではあるまい。世の中の矛盾はここにもある。
名をなし、財を持った人は年老いてくると先祖の事を知りたがり歴史を遡りたくなるのは世の常なのである。何処どこの誰それが先祖である。人はそのように言って人から尊敬されようとし、自らを誇る材料にするのである。
 あまりその事に拘ると墓穴を掘る事に成りかねない。
先も書いたが身分相応の生き方のなかで自らを磨き人様のために邪魔になる石を動かす事の方が遙かにすばらしい人間であり、尊敬される生き方なのではあるまいか。
 
 蓮井家の歴史も今田家の歩みも真意は何処にあるのか、真実は今生きている人間の生き方なのである。奇跡という偶然がどのように降ってきたか、人はその目に見えないものに左右され生きていることを認識する必要がある。何も公にすることのない生き方、恥じる生き方をしないことなのだ。心に根の張る生き方が出来ていれば何処で何をしようが人として育つものなのだ。
    
播磨の赤松の家臣であった。とか、平家の落ち武者であったとかいろいろと耳に入ってきた。平安末期まで遡って行くと分からなくなる。その時代にも生きていたのは間違いがない。そうでなくては血が途絶えて今を生きている人がいなくなることになる。
 
 瑞恵の系譜は児島の野崎と荻野から分かれて古谷野と名乗り、江戸のはじめ津田永忠が藩主の命により開墾された児島郡福田村古新田字三の割へ出てきたという話を聞いた。瑞恵の母は竹井家、高梁川の上流に里を持ち、そこから水島南畝へ出てきたらしい。この話は義父母から聞いたことなので真実だろう。義母の美子は男一人、女三人を生んだ。義父の豊は美子と結婚して戦争に行き肩に銃弾を残し退役し満鉄に入ったという。古谷野の家は子たくさんで豊がもらう田地はなかったので満州に渡ったのだった。終戦の前、ソ連軍が不可侵条約を反故にして満州へ侵攻してきて、豊か一家はほうほうの体で日本の土を踏んだという。古新田に帰り、兄弟の手伝いをしながら働き土地を少しずつ増やしたのだと聞いた。瑞恵は二女で大変な苦労をしたという。電気も水道もなくランプと井戸の水での生活だったという。かますを織り、漬物屋へ手伝いに行き高校へ通ったと聞いた。ランプのホヤの掃除は大変だったと言った。藺草を植え、葡萄の栽培をし、米や麦を植えた。それも水島コンビナートが出来て工場の煙にやられたという。今の繁栄があるのはコンビナートのおかげであるが、その煙で多くの人が公害ぜんそくの犠牲になった。
 悠が瑞恵と結婚し古新田に来た頃は、南の空は燃えていた。何百という煙突から五十メートルの炎が空を焦がしていたのだ。夜でも明かりがなくても新聞が読めたのだ。
 悠は公害闘争をした。死んでゆく人をただ黙って見ていることが出来なかったからだった。

 人間が生きると言うことは何かの犠牲の上に成り立っているものだ。人は不幸の上で贅沢に暮らす、動物を食べ、野菜を食べる。水を飲み、水を汚す。それらに何ら矛盾を感じない人間という動物は傲慢なのか。自然はその人間の愚かしさを浄化してきたが、君たちの時代に成ってそれがあるとは限らないだろう。
 
ここまで書いて、悠は嘘を書いているかもしれないと思うようになった。が、このすべては聞いたことなのだ。それが偽りではなかったこととして信じるほかないのだ。信じる、信じる事は尊い、何も信じられない世の中に人は住むことは出来ないのだ。

風が立ち、やがて冬が来て寒い日々が訪れる。春に咲く花は冷たい土の中でじっと耐える、冬芽はそうして春に美しい花を開く。人もまだ同じでなくてはならない。堪え忍んだ花だけが本当に美しい花をつけるのだ。

瑞恵を乗せて瀬戸大橋を渡った。母の里へ行ったが、以前あった墓は見あたらなかった。叔父安治の子清秋が、西行法師の入滅した大阪は南河内の弘川寺のあたりに家を新築したときに移築したのではないかと思った。
大森家の大きな墓標もなくなっていた。

時とともに有り様は変わる。それが時代というものだ。いくら過去を探してもなくなっているものが多い。

過去の人たちは今を生きている人の心にある。

「今年は颱風が来なくて良かった」瑞恵が言った。
「それも困ることだ」
「なぜ」
「颱風のおかげで渇水が免れることが多いいから」
「これから一体何処へ地球は向かうのかしら」
「さあ、このような地球の状態は何度となく繰り返されて来たのだから・・・」
悠はそこで言葉を留めた。
そんな会話をしながら車は家路を走っていた。
 
 秋の風は柔らかく取り巻き、心地良い流れをもたらしてくれていた。やがて訪れる冬の前触れであろう雲の色が変わろうとしていた。

人は生きて行く中で、世の中の身分や職責の高低、貧富に左右されやすいがそれが何であろう。そのことに心を裂いていては自らを成長させる努力を低下させることになるのだ。
 自由に生きたまえ・・・。血筋がよかろうが悪かろうがそんなことは幸せとは何ら関係がないことなのだから・・・。職業に卑賤はない・・・。人の命に差別はない。幸せについては人それぞれの価値観がある。相応の生き方、いくら人から何を言われようと卑屈になることはない、それを自らが選んだことだとしたら胸を張って生きることだ。心だけは卑屈にならなかったら何をしてもいい。人の生き方考え方は顔に出るものだ。
 幸せとは自分だけの幸せであってはならない。一人が一人を幸せにする、それが最初の感じる歓喜の感情でなくてはならない。それからたくさんの人を幸せにすることは何をすればいいのかを考えることだ。そのすべてのことは現状が相応に生きていることで生まれることなのだ。


この書きものは子供たちや孫たちに省三の家系を書きしるしたものである。

夏の空2へ続く…。


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